幼い頃はよく祖母の家の窓から、冬の日の薄暗い太陽の光を眺めていた。ほとんど変化を感じさせない光が一瞬にオレンジ色に燃え、地平の向こうに沈んでいくのを待ちながら。古い時計が四つ鐘を鳴らす時は、祖母が長い昼寝から起きて、夕飯の時間だった。最初の記憶は、静寂のひろがりに石ころが点在するような感触だった。

十代の夜、遅くまで受験勉強したある日、気分転換に自宅のバルコニーに行った。内側まで氷が厚く凍り付いた窓を開けると、銀色に凍りついた街があった。無情な街灯の明かりが凍った路面に反射され、コンクリートと氷で出来ていた街は、人間の視線を求めようともしていなかった。

そして私は見られるために設計された世界のなかで大人になっていった。観察の視線、監視の視線、命令する視線、臓器まで届こうとする視線、誘導する視線。視線による支配が至るところで上演されているのを目撃しながら。

無数に飛び交うフライト、溢れ出る情報、表象されずに表面行き止まりの、想像を放棄したゲーム。見て見ぬふりする視覚の習慣が心の構造に。それらに支えられている現代人の自由。

 

意識は光と並走する、多重空間を行き来し、無限に反射され、遮られたり、引き伸ばされたりする。エネルギーを求め、費やし、情報を伝達する。イメージを作り上げ、膨張させ、忘却させる。実存との関係が加速度で失われていった宙ぶらりんの空間。

人間とモノの境界や、文化の相違を超える「自然」と「現代性」が交差する複数の空間に行き来する圧力の存在と落差を捕捉する。見る見られることよりも、臓器が蠢くような緊張を感じとりながら写真を切り取っていった。経験はいつも断片であり、終わりなき循環である。それらを掬い上げて、つなげてみたりする。

ここの写真には感情移入をもたらす視点がない。不在する人間の息遣いは、重力を持つ形と色となりつつあり、消えつつある。太陽も氷も砂も、いつもそこにあった。人間は喧騒で静かなまま。

Dyed my Hair Blond, Burnt Dark at sea 展に寄せて

2019年7月