ABSCURA / talk event / 2020.1.18 @ニコンサロン銀座 

LILY SHU × 姫野希美

(挨拶など前略)

LILY:姫野さんとお知り合いになったのは、写真1-Wallというコンペでした。その時は二作目のカラーシリーズで応募しましたが、自分の制作意図や表現に興味と理解を示してくださいました。今回展示しているABSCURAをお見せした時も、気持ちに寄り添うコメントを頂きました。その後、様々な形で対話を重ねていき、写真集を出版することになりましたね。

姫野:本当は写真集が間に合えばよかったですが、色々こだわって作っているうちに、時間が経ってしまいましたね。

LILY:そうですね。秋山伸さんにデザインにお手掛けいただき、鋭意進めています。ぜひお楽しみにしてください。今日は簡単なスライドをお見せしながら、進められたらいいなと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

姫野:よろしくお願いします。ポートフォリオを見る時から思ったのですが、これは自分達が知っている家族写真とはまるで違う様相を提示しているような気がしました。例えば、いま作っている写真集の冒頭にも入る一枚ですが、お母さんらしき女性がキッチンの流し所に、斜め後ろから見ている感じの写真があります。その次となる写真は、自分の両足越しに撮ったのですね。この二枚を見て、実はちょっとびっくりしました。写真がうまいとか、とは別で、その隙間で表現される母親との関係性はとても新鮮でした。

LILY:ありがとうございます。母親というのは親密な他者の中でも格別な存在だと思いますが、台所に立つ無防備な姿を見た時、「身体」というものが改めて目の前に現れた気がしました。

姫野:一室の狭い空間に、三人の身体が密にかかわる形で、このシリーズがスタートしたのですか?

LILY:そうですね。一人暮らしのアパートに両親が訪ねてきて、10年ぶりに共に暮らしました。隔たれた時間の中に生まれた距離やお互いの存在を感じながら撮影を進めていったことが最初でした。自分から指示を出すことがなくて、両親が撮られることも避なかったですね。

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姫野:部屋という箱のなかに、色んな物が詰め込まれてくるような、そういう感じだったのですか?

箱があって、そこから両親がやって来たという感じですかね。

LILYそうですね。ある時、一人暮らしの部屋を見つめていて、これは揺籠のような、墓地のようだなと思いました。留学して海外に暮らし、自分にはこの身体しか持っていない感覚は何度か覚えたことがあります。現代都市においては、どうしても資本が主体となり、どれだけ長く住んでいても、周囲との関係性は消費に基いたものであるため、繋がりを持つことが難しいと思います。自分の場合は、実家から離れているあいだ、両親が引っ越してしまい、子どもの頃の記憶がある家もなくなりました。それで、昔書いた日記や手紙の入った小包みを東京に送ってもらうと、東京に住むアパートのほうが身体的な連帯ができ、より自分の家であるように思いました。そこから時間と空間との結び目としての身体、という視点から撮影に取り組むようになりましたね。

先ほど言っていただいた「隙間」というのは、空間的であり、時間的でもあると思います。被写体との距離感は写真を読む切口の一つですが、主体が不在する場所を撮る時も、そこに不在する主体に対する感情や思い、それに伴う「距離」が出てきますね。その距離において、時間との関わりが表出されます。ですから、一室を撮影しても、一室の様子だけが写されるわけじゃなくて、詩の原理に近いかもしれません。

姫野:なるほど。日本には「血であり肉であり」のような私写真がありますね。そういった写真には、自分の気持ちに近しいものもありますが、リリーの写真は肉体だけど、いわゆる私写真とは掛け離れた感覚の写真ですね。私たちはどのようにものを見ているのかということに意識させられる気がします。例えば、そこに二本の足が写される写真がありますが、私にはすごく異物感がありました。自分がどこを見ているのか、という気持ちにさせられました。空間の中に割り込むというか、存在しているものを別の角度から見るという視点に惹かれました。

LILY:身体をモノとして撮るというか、人間とモノを分けないスタンスがあるかもしれません。光がいろんな方向に飛び交っていく中に世界が存在していますが、自分にとっては、光を通すものと通さないものの違いしかないかもしれません。物語性よりも、ある存在がどのように現前させられ、形や痕跡として残されているのか、どのように消えていくのか、といったことに興味があります。

姫野:なんか分かる気がします。これまで見て来た自己愛から生まれたかもしれない写真とは、全然違いますよね。自分の髪が切られて落ちているところとか、あまりにも無残なものがある。身体という最も近しいものでありながら、最も遠いところに存在する、という感覚にさせられますね。光を通すものと通さないものについて、もうちょっと聞いてもいいですか?

LILY:写真家はよく光を扱いますが、なぜ必然的に光を扱うのかについて、あまり考えられていないような気がします。写真は光を捉えるよりも、影を写すものだと考えています。相反するように聞こえるかもしれませんが、意識や認識を織り成すものの核心は、光ではなく、影だと思います。可視性の前提は光線だけど、空間を感じるのには、必ずしも光が必須ではないですね。暗闇の中でも、全身で空間を感じられます。 

姫野:風景の中の光が綺麗だとか、ライティングがうまいという話とは違いますよね。

LILY:そうですね。写真の語源はギリシア語で「光で書く/描く」であり、和訳の「写真」はリアリズムの意味から翻訳されています。この二つのネーミングから誤解が生じられ、今に至っていると思いますね。デジタル写真の編集は、透明であるかのようなスクリーンを介して可能になっていますが、いま見ている光は、反射光なのか、スクリーンからの入射光なのかって、考えたくなりますね。光・空間・主体が、どこから来て、どこへ行くのか、といったことを意識して撮影、制作しています。現代社会において、写真が問いかけられるリアリズムの問題は、視覚的な本物らしさや証明性を超えて、非常に示唆的なメディアだと思います。 

姫野:リリーの写真だなと思ったのがありますが、例えばこの一枚ですが、画面が三分割されていて、お母さんが横渡っていて、リリーが立っている足が見えますね。だけど、一瞬に全部、柄に見えるときがありました。今日の展示を見て驚いたのは、その隣にある小さい写真が、それは心臓の写真かな?それも柄に見えました。

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LILY:この写真は父が手術を受けた時、家族に開示した映像を複写したものです。

姫野:部屋という空間があって、そして身体が乗り込んできて、さらに身体の内側も意識させられて、内側にあるものと外側にあるものが、徐々に入れ子状態になっていく感覚がありますね。そして、このシリーズは部屋の中だけではなく、実は外の写真もありますよね。ハルビンで撮った写真もありますよね?

LILY:はい、ライトに照らされた氷の写真ですね。光を透過させながら、光を氷のなかに閉じ込めていて、燃えている石炭のようにも見えました。氷の物質性が光の存在によって強調され、透明性と不透明性、可視性と不可視性の両方を持ち合わせています。その状態にこそ、身の上に感じられたリアリティー、いまの時代と社会について感じられるものがありました。

姫野最初はガラスだと思いました。なるほど。日本の写真業界にはこれまで、家族を捉える写真が多かったですね。肉親であるとか、肉親という言葉で表される感情が蠢くところだとか。リリーがやろうとしていることは、おそらく個人と社会、個人と環境、そういったことに転換していく作業だと思います。家族と家庭のあいだに膨らむものも、視野に入れているのかなと思いますね。また、このスライドにでも提示されている事柄ですが、家族と家庭、一文字違いで考えさせられることが沢山ありますね。

LILY:そうですね。確かに私は、世界に向ける関心を私的な領域である「家」に落とし込んで表現している部分があります。「家族」という表現は「カテゴリー」としての色合いが強いかなと思います。例えば、女性同士、日本人同士、そういった分類に近い形態ではあるかな。でも家庭だというのは、ネット上で作られるグループのように、自分達の意志によって組み合わされる集団になりますね。家の原型は「家庭」であって、「家族」ではなかった。血縁的な連帯性より先に、様々な社会的な関係性が家庭の内部に投影され、それを形づくります。子供がその中に産み落とされ、それに順応していきます。舞台とそこで発生していく演劇のようなものですかね。

姫野:リリーの作品は常に舞台のようだけど、出来事があるわけでもなく、物語があるわけでもないですね。

LILY:いかなる出来事も起きていないです。そもそも両親であることはこの作品を理解する前提ではなく、男女であることのほうが重要ですね。 

姫野:それある意味ですごく政治的なことですね。勿論お父さんとお母さんであっても、とても政治的だと思います。説明的に語られている訳ではなく、プライベートなものこそがポリティカルであるというか。そういう所はとてもリリー的な写真だと思います。

LILY:自分が想定された物語を押し付けことなく、何かしらの思いを喚起させられるようなイメージを与えることが、自分のやるべきことだと思っています。全ての条件設定を避けたくて、他の作品においても、できるだけ記号性があるものを避けています。

姫野:環境と個人との関係性が、写真表現の中でも大きなテーマになっていますね。

LILY:そうですね。出来事の背景として空間があるという認識は、人間中心主義の発想であり、都市が形成される出発点でもありました。そのような環境に長く生きていると、意志の自由を判断する基準が曖昧になってきます。他人が作った操作的な空間が「私」の物語を演出させている、といった空間の政治学に関心があります。環境が行為をもたらしていることを意識してほしいですかね。

姫野:話題を今回の会場に移しますと、入口からは通路のようになっていて、不思議に光が漏れるというか、その垂れているものがあって、ニコンサロンの使い方としては、あまりない導入ですね。リリーの展示は面白いという定評があると思うけれど、今回はどう思いましたか?

LILY:もともと森や洞窟的な空間が好きですね。揺らぎの中に見えるものは、いずれにして誤解の中に生きるしかない人間にとっては、もっとリアリティーがあるのではないかと思います。この展示については、細やかな光が灯るようなイメージを持っていました。そして、来場者が歩く時の風で揺れるビニールのシートがありますが、この空間に入ってくる身体と関われる雰囲気がよかったので、そうしました。

姫野:なるほど。確かに今回の展示で見られる光は、反射されているのか、後ろから来ているのかがすぐには判断できなくて、写真内の視点の揺らぎと相まって、面白いなと思いました。

LILY:ありがとうございます。浮遊しているイメージのほうが好きですね、表象の中間層というか。

姫野:うん。そうですよね。今日の話を聞いていて、やっぱりリリーは単純に感覚でやっている訳ではないのがよく分かりました。写真の摂理を活かしながら撮影しているという感じがしました。そして今日の話をしながら思い出しましたが、亡くなられた同じく中国の写真家、任航ですが、若い友達と遊びながら撮ったヌードの写真より以前に、お母さんを撮る写真があったのですね。それはお母さんによるお母さんのポートレートですが、写ったのは、まるでお母さんではなかったですね。このシリーズも、全くリリーの家族の物語と思っていなくて、さっきからこんな視点を持っているんだと驚きながら話を聞いていました。それでいながら、単純に写真のコンセプトについての作品でもないですね。コンセプチュアルに回収されずに、このシリーズの写真集をつくりたいですね。

LILY:ありがとうございます。空間が身体を演出させるフィクションのような時間の流れを持ちつつ、時間のなかに変化する行為が見せる表象。これまでの私写真や、ジャンル化されたコンセプトアートと違った個性を持って、といったことを想起させられました。原点に立ち戻るような純粋で濃密な時間でした。皆様、ご清聴ありがとうございました。

姫野希美(ひめの・きみ)

 

赤々舎代表取締役・ディレクター

早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。青幻舎を経て、2006年に赤々舎を設立。写真集、美術書を中心に刊行。

第33回木村伊兵衛写真賞の志賀理江子『CANARY』、岡田敦『I am』、第34回同賞の浅田政志『浅田家』、第35回同賞の高木こずえ『MID』『GROUND』、第38回同賞の百々新『対岸』、第40回同賞の石川竜一など、話題の写真集を精力的に出版している。

赤々舎 HP:http://www.akaaka.com/